鰻丼と鰻屋の話

鰻丼の並と上、あるいは鰻重の松竹梅の違いはなにか。もちろん並が安くて上が高い。松竹梅は、梅が安くて松が高い。この値段の違いはどこから来てるのか? 

量から来てるのである。つまり牛丼屋の並と大盛りと一緒なのである。値段が上がれば量が増えるのである。牛丼屋との違いは、値段が上がって増えるのは蒲焼きで、ごはんはあまり増えない、ということかもしれない。

天然物と養殖物でランク付けをしている店もあるのかもしれないが、基本的に値段は量に比例している。


去年の結婚記念日に、我が家のお気に入りの小田原の鰻屋「鰻昇」に行ったら休みだったので、ガイドブックに乗っていた同じ小田原の「柏■」という鰻屋に行ってみた。

座敷に上がって、さあ注文しようと思い、近くのテーブルで割り箸を補充しているおねえさんにメニューを所望したところ、壁に貼ってあるのを見るように言われた。私の席から壁のメニューは見えない。しかたなく立ち上がってメニューを見、注文した。メニューといえば、この店で何か食べられるか、という客にとっても店にとってもとても大事なものである。その大事なメニューに対してこの扱いである。いや驚いた。

客がオーダーしやすいように、と店が腐心するのがメニューではないか。ファミリーレストランなどでは、デザートメニューをテーブル上の常に見えるところに置いたりして、客がオーダーしやすいように、自分の店が儲かるように工夫している。

おねえさんは、テーブルに割り箸を補充する作業を続けていた。この店では、目前の客よりも割り箸の補充が大切である、と教育しているのだろう。

鰻は注文してから出てくるまでに時間がかかるのが普通なので、その間にお酒でもいただこうと思い、日本酒も頼んだ。

お酒はすぐに出てきた。出てきたお酒を見てびっくりした。透明なガラスの徳利で、その徳利には酒の銘柄(松竹梅だったか白鶴だったか、そんなような名前だった)が印刷されていた。仲居さんは、栓抜きでその徳利の栓を抜いてくれた。店構えは老舗のたたずまいである。そんなものが出てくるような店には見えない。意表をつかれた。が、驚くのはこれだけではなかった。

料理屋でお酒を頼めば、ちょっとした肴が付いてくる。その肴はたいてい小鉢に入っていて、煮たのとか和えたのであることが多い。店としては、煮物や和え物なら作り置きがきくので、注文があるとスグに出せるからだと思う。客としてはこの肴を楽しみ、これからの料理に思いを馳せる。店の印象すら左右する大事な肴である。

気の利いた肴が出てくると、嬉しくなって、これからの料理への期待も大いに高まる。

この店でも小鉢に入った肴が付いてきた。透明のガラスの徳利入りのお酒が出てきたが、ここは老舗の料理屋である。ガイドブックには割烹と紹介されている料理屋である。さきほどのメニューに関する客あしらいには驚いたが、味には期待している。小鉢の中はどんな肴なのか、楽しみである。

小鉢の中を見て驚いた。驚愕した。仰天し驚嘆し愕然とし、喫驚し驚倒した。肴は煮たのでも和えたのでもなく、乾いたのだった。乾き物というやつだ。しかもこの乾き物は料理屋の肴とはいえ、料理人の手は一切加わっていない。買ってきてそのまま、という乾き物だった。

柿ピーだった。柿ピーに説明は不要だろう。老舗のたたずまいの座敷に柿ピーである。かなり前衛的な肴であることに間違いはあるまい。このような場所で柿ピーを好む人がいるかどうかは別として。

お燗は、グラグラに沸かしたような熱燗であった。なるほど、酒のまずさはこうやってカバーするのか。こうすれば酒の味などわからない。

この店の方針は、メニューを客から見えにくくし、所望する客には「壁のメニューを見ろ」と、今後のサービスへの期待を断ち切り、酒と肴でこれからの料理への期待を断ち切るという方針であることが判明した。それによって、リピーターになる客を断ち切っているわけだ。

イチゲンさんだけを相手にここまで長続きしてきた店なのだろうか。たいした店である。畏敬の念すら感じる。

注文した鰻重はすぐに出てきた。こんなに早く出てくるというのは、あらかじめ作っておいたのを暖めて持ってきたのだろう。味はスーパーの鰻と同等だった。鰻重の値段としては普通だと思うが、味から考えると割高だった。

こういう店で暖めた鰻が出てくるとは思わなかった。しかしながら、それまでにこの店の方針を理解していたので、もうすでに驚くことはなかった。

閑話休題(それはさておき)。

鰻重の松竹梅の値段の違いは量の違いだ、という話だった。ここから私は何かを言いたかったのだ。


ホクホクした蒲焼の美味さはもちろんとして、タレがしみこんだごはんも美味い。ほっくりした柔らかい蒲焼とごはんとの組み合わせは実に美味しい。ひとくち目を食べたとき、こってりと口の中にからみつく濃厚な柔らかさに、多くの人は笑みがこぼれるはずだ。

次のひとくちは、笑みがこぼれて横に広がった口で食べるはずだ。

美味い。どんどん食べる。

しかしながら、ご存じのように、鰻の蒲焼きというものは味が濃い。タレの味も濃い。そのタレはごはんにまで及んでいる。しかも鰻丼(鰻重)の中にはこの味しかないのである。

鰻丼(鰻重)は途中で飽きがくる食べ物だ。単調な味の繰り返しに飽きてしまうのだ。いくら美味しいとはいえ、飽きてしまった食べ物はつらい。食べるというより、食べ物を口の中に片づけるという感じになってしまう。

食べ物を口の中に片づけていては美味しくない。そんな食べ方はイヤだ。なんとかしたい。

そんなときに力を発揮するのが、付け合わせのお新香だ。口の中が鰻の脂まみれになって、濃い味付けに飽きたころ、ごはんとお新香の組み合わせが口の中をさっぱりさせてくれるのだ。(このときのごはんは、タレがかかっていない白いごはんだとなおよろしい)。鰻の柔らかさに慣れた口の中に、ポリポリとした食感も新鮮である。東海林さだおが言うところの「お新香のひととき」だ。お新香あなどるなかれ。お新香の力が鰻に勝る一瞬である。

このひとときが嬉しい。たとえば、かにみそをちょっとなめて、それから日本酒を飲むと、口の中がさっぱりする。さっぱりするだけではなくて、濃厚なかにみその後味と日本酒の味が微妙に絡まりあって、かにみそも日本酒も美味しく感じる[1]。鰻丼(鰻重)の中のお新香のひとときもそんな感じだ。お新香としても、こんなふうにして食べてもらったらお新香冥利につきると思う。

[1]酒の肴の口よごし、と言うらしい。この場合は酒が主で、肴が従である。これを鰻丼とお新香に当てはめるとお新香が主で鰻丼が従になる。お新香が鰻を従えるのである。すばらしきかなお新香。

濃厚から清涼。

フラグメンテーションの解消。

そんな感じだ。

鰻屋はお新香に気を使ってほしい。

お新香のひとときでリセットされた口の中の味覚は、再び鰻丼を美味しく食べられる状態に戻っている。一口目のあの笑みがまた戻ってくるのだ。ところが、鰻丼の上や鰻重の竹や松では、鰻が多すぎて、「お新香のひととき」では追いつかないことがある。ごはんと蒲焼きの量が、ややもすると蒲焼きの方が多くなって、お新香に回せるごはんがなくなってしまうことがあるのだ。

私は、鰻屋といえば、小田原の「鰻昇」を贔屓にしている。ここで私は鰻丼の「梅」を食べるのである。ここの「梅」が私にとっては丁度よい。鰻の量とご飯の量のバランスが丁度いい。鰻が少なすぎるとお新香のひとときどころか、お新香がおかずとして活躍することになる。それは避けたい。潤沢な鰻があってこそのお新香のひとときだ。

私は、貧乏だから梅を食べているのではないのである。鰻丼の竹を食べるくらいの甲斐性は私にだってある。「鰻昇」では鰻丼の梅が1,500円。竹が2,000円。鰻丼なんて年に何度食べるかわからないが、どうせ2,3度である。そんな食べ物1食に2,000円かけたところで、ウチの家計はビクともするもんじゃありません。1食くらいなら、鰻重の松2,500円だって大丈夫です。私にだってそのくらいの稼ぎはあるんです。量が丁度よくて、私の食べ方にマッチしているから「梅」なのです。この店の鰻丼は「梅」でもけっこう鰻がたっぷり入っています。だから「梅」がお気に入りなのです。(気分によっては「竹」のときもありますが)

なんで「梅」を食べるときは言い訳しなきゃないんだ。こうしてみると「竹」というランクの中庸性はすごいな。


【目次】