10-SEP-1993
日曜日に初めてキリスト教式の結婚式に出席した。 キリスト教といってもカトリック、プロテスタント、長老派だのルーテル派だのあるらしいが、私の出席した教派がなんだったかはわからない。 教会の中に入るのはわが生涯で2度目である。 1度目は姉が行っていた幼稚園の教会になんの用事だかは忘れたが入ったことがある。 姉は岩沼幼稚園というキリスト教系の幼稚園に行っていた。 幼い私は姉の真似をしたくて「テンニマシマスなんとかかんとか」と いうのを覚えて姉と唱和したような記憶がある。
教会の中に入ると、木のベンチが左右にズラりと並んでいるのが目につく。 薄暗いんだか明るいんだかわからないくらいの明るさである。 宗教的な明るさとでも言うんだろうか。 天井は高い。3階ぶんくらいの吹き抜けだ。天井の形は切り妻の屋根を内側から見た形そのままでである。 柱ごとにクーラーが設置されているのでそれほど暑くない。 正面はステージ風になっている。意外に広い。 ちょっとした公民館のステージくらいの大きさはある。 そのステージいっぱいに白くて屋根が丸くて、両翼に四角い建物を従えた教会風の 建物の模型というか、摸した家具というか、置き物というか、なんというかそういうものがある。その上方に十字架に磔にされたキリストの象がある。 回りの壁は上のほうに縦に細長いステンドグラスがはめこまれている。 ステンドクラスから差し込む光が美しく映えている。 その下にはキリストの一生のなかの各イベントがレリーフで飾られている。 私が教会についたときにはもうすでに式は始まっていた。 新婦がその父親といっしょに花道を歩いている最中だった。 参列者は100名以上いる。 右側のベンチの並びに知り合いが多いように見えたので、 知合いの近くに席を確保した。 前のベンチの足元には、足を乗せるには少し高い位置に平たい横木が渡してあっ た。なんに使うんだろう。 神父は白人だった。上手な日本語だがアクセントにラテン系言語の訛りがある。 神父と言わずに牧師というのかもしれない。違いはよくわからない。 神父の後ろには6名の東洋人の若者がステージ上で、 神父とお揃いの白い服を着て立っている。歌ったり手を合わせたりしている。 その他に白人の神父のサポートをする日本人の神父がいた。 白人の神父が大勢の東洋人の前で説教している様は、中世のキリスト教の布教活動を思いおこさせる。神父の説教は平易な言葉で愛とか世界平和がどうしたとか言う。でもそれはキリスト教世界観での世界平和なのだ。 キリスト教式に則って式次第が進行していく。 歌を歌ったり、立ったり座ったりいろいろやらされる。司会の人が「ご起立ください」とか「お坐りください」とか言う度にその指示に従う。途中「ひざまずいてください」というのがあった。ひざまずくとはどういうスタイルなんだろう、と思って回りの人たちを見渡すとさっきの謎の横木に膝を乗せていた。真似して膝を乗せる。固い木の上で膝の骨に体重がかかるので膝小僧が痛い。 神父がなんか言うと、列席者がそれを唱和するという形式がしばしば訪れる。あらかじめパンフレットを渡されているので、神父の言葉に対してこちらは何を言うべきかは分かっているのだが、そうそう言えるものではない。長いフレーズじゃなくてアーメンくらいなら言えるかというと、言えない。 といって南無阿弥陀仏だったとしても言えないと思う。 つまり宗教的な言葉を唱和することに馴染んでいないのだ。ただ黙って立ったり座ったりする。 私のようなキリスト教にはなじみのない一般の列席者が終始無言でも大丈夫。 聖歌隊や教会の近所の檀家さん(?)も参列しているので、彼ら/彼女らが唱和してくれている。いたたまれない沈黙の時間が訪れずにすむ。 聖体拝領になった。洗礼を受けている人のみパンをいただける。 私はただ席にいた。参列者の中、半数くらいが立ち上がって拝領を受けるための列にならんだ。 その中には披露宴に出席するために和服を着たご婦人やらお嬢さんがいる。 和服姿で聖体拝領を受ける様を見たとき私はとっさに「かくれキリシタン」という言葉が脳裏をよぎった。 |