2月9日
ここは小さな湾だ。鯨の親子が船の回りをしばらく泳いでいた。ああ鯨だ、と思うだけだった。鯨が現われることは俺の日常に組み込まれてしまったようだ。
初めのころは南極の海をクルーズする感動に圧倒され、景色の凄さに圧倒されていたが、段々と感覚が麻痺してきて感激が散文的になってきた。どんな素晴らしい景色も見飽きる、という先人の言葉はけだし名言だと思う。景色ばかり見ていては生きていけないのだ。ご飯も食べなきゃいけないし。
氷河といえば谷間を埋める白い川というイメージがある。 南極のように氷が谷を覆って、山ごと呑み込んでしまっては氷河というイメージではない。氷床という呼び名のほうがぴったりくる。
氷河は全陸地の10%を占めるともいわれている。その98%はグリーンランドと南極にある。しかしこれはやはり氷床と呼ぶべき物で、我々がイメージする氷河(谷氷河)の多くはノルウェーのスピッツベルゲンやアラスカ、パタゴニアに存在する。
このような大きさの氷山は12年から14年で消滅するといわれている。
頂上に着いた。高いところから見る南極の景色はいつも登った努力に報いてくれる。実に美しい。とりわけモノトーンの世界にちりばめられた氷山のブルーが美しい。 帰りは雪の斜面を滑り台にして、おしりを雪面につけて滑り降りる。これがすごく楽しい。リフトでもあれば何度も滑り降りたいくらいだが、もちろんリフトなどない。もう1度やりたかったが登ることを考えると断念した。 船にもどり最後の観光地点レーメア海峡へ向かう。
海氷をかき分けて進む。
その景色を例えて言うなら、知床のようなところで瀧が海に落ちている景色があるが、その瀧が雪というか氷なのだ。そしてその幅は10数メートルから何キロにも渡っているという感じだ。黒々とした岩肌の質感と白い氷の質感のコントラストが美しい。 船はその間を進む。 移動の間に見える景色は温帯地方に住んでる俺にとって驚くべき迫力を感じさせる。 海には氷山、雪と氷の山々。
南極の陸地は海からいきなり氷の山が始まる。アルプスやヒマラヤのように木々に覆われた山を登っていくと森林限界を越えて岩だらけになる。それからさらに登ると雪と氷の世界になる、というおだやかなものではない。いきなり雪と氷の世界のなのだ。海の上に突然雪と氷の岩山が立ち上がるのだ。中緯度地方なら高地でしか見ることのできない景色が海抜0メートルから始まっているのだ。
目を山から下のほうに転じると、その山の続きとしての海には東京ドーム大の氷山や武道館大の氷山が浮かんでいる。1戸建ての家くらいの氷山の上にペンギンたちのいる景色はまるで写真のようだ。その写真のような景色を写真に撮る。カメラを持っている人でシャッターを押さずにいる人がいたらそのカメラはきっと壊れているに違いない。とにかく誰もがシャッターを押したくなる景色なのだ。コダックやフジフィルムの販売促進担当者が喜びそうな景色なのだ。
美しい景色というのはグラビアページやカレンダー、ブラウン管や映画スクリーンの中でよく見かける。でもそれはフレームで切り取られた美しい景色だ。臭いも温度も風も感じない。存在感が希薄な景色だ。しかし、その場に行けばその景色は実際に存在するのだ。360度全天に渡ってきちんと3次元で存在しているのだ。グラビアページも裸足で逃げ出すような迫力だ。ナショナルジオグラッフィック誌の写真はトリックじゃなかったのだ。 ありふれた言葉で言えば「ダイナミックな大自然」というやつだ。
ニューメイヤー海峡を抜けフランドレス湾の入口を越え、レーメア海峡に入った。前方はほとんど氷山で埋め尽くされている。氷山の密度が高すぎて本船での航行はできない。ゾディアックが降ろされ、最後の氷山観光が始まる。ここが今回の南極クルーズのの最南点でもある。緯度は65度5分くらいだ。厳密にはまだ南極圏ではない。
ゾディアックに乗り換えて、我々が氷山に近づきその回りをぐるぐる走り回るころに、薄日が差してきた。ありがたい。
アザラシが氷山の上で休んでいた。我々が近づくと氷山から海へ飛び込んだ。そこは海面下だけれども氷が水中に張り出していて水がブルーに光っている。その光を背景に泳ぐアザラシ。 氷山の近くに寄ると、海水による侵食なのか、氷山どうしのぶつかり合いなのか、氷山固有の密度のせいなのか、その造形が見事だ。カーテンのような、庇のような周辺部。その隣には天に向かって突き上げる槍の塊のような氷山。 ゾディアックからアラ・タラソーバにもどり、本船のバーでビールを飲みながら、なごりの氷山を見る。
いま本船は氷山の海を静かに走っている。人間のすむ土地へ、南米大陸へと帰るのだ。
俺が見ていようと見ていなかろうと、その世界は存在しているのだ。いま東京でこれを書いている間にも。
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