2月8日
この揺れで事件がおきた。乗客の中の糖尿病患者が船酔いのために自らにインシュリン注射をすることができなくなったのだ。彼はチアノーゼを起こして意識不明の状態に陥った。血圧低下、心拍数低下、呼吸数低下、あわや呼吸停止という状況だ。 意識不明になった人の同室の人が医者を呼びに行き添乗員もかけつけた。船にはロシア人の船医とツアー付きのアメリカ人の医者が乗っている。しかし意識不明の患者を治療するような施設はこの船にはない。患者の血液を採取しても通常の血糖値が解らないので治療ができない。 患者の主治医に電話をかけてFAXを送ってもらうことになった。こちらの時間が午後6時だから、日本時間は朝の5時だ。1時間後にFAXが送られてきた。それに合わせて治療が行なわれ、一命はとりとめ、患者もかなり意識がしっかりしてきた。 患者が発生してから船は停止している。患者の輸送について、船側と旅行会社側で議論されている。 患者はキングジョージ島のチリ基地から輸送機でチリ本国へ輸送するということになった。問題は輸送機の席の手配だ。 午後9時すぎに船はキングジョージ島へ向けて動き出した。患者には医者と日本人ガイドの野口さんと添乗員が同行する。野口さんはほとんどネイティブのイングリッシュスピーカーだが、チリはスペイン語の国だ。でも医者はアメリカ人だし、患者は日本人だ。ややこしい。 船はいままで来たコースを逆戻りして、午前4時にキングジョージ島のチリ基地沖に到着した。患者がゾディアックで運ばれていったのはそれから1時間以上あとの午前5時すぎだった。しかしアラ・タラソーバは動き出さない。添乗員が戻ってくるのを待っているのだ。 戻ってきた添乗員によれば、野口さんの大活躍により、輸送機の席をなんとか3席確保してチリ本国へ向かったそうだ。めでたしめでたし。 この事故によってスケジュールが乱されたことを怒る人もいたが、おおむね病人が助かってよかった、という船内世論だった。しかし時間が過ぎると、「なんで病人なんか乗せたんだ。これは旅行代理店の責任ではないか」という人たちも出てきた。 そこで問題が起きた。スケジュールが遅れたぶんなにかを犠牲にしなければならない。 はじめに旅行会社から提示されたスケジュールは、本日午前8時までにチリ基地沖から船が出発できればリビングストーン島のハンナ・ポイントへ寄るが、出発が遅れればリビングストーン島はカットというものだった。 海図を見てみると、次の目的地であるパラダイス湾の途中にデセプション島がある。リビングストーン島はコースを外れたところにある。それで旅行会社としてはリビングストーン島をカットするのだと俺は思った。今回のツアーではデショプション島の温泉というのがパンフレットのウリ広告になっていたので、旅行会社としてはこれは外したくない。 船が出発したのは午前10時だった。8時を過ぎること2時間。これではリビングストーン島がカットされてしまうだろう。 しかしリビングストーン島をカットしては野鳥の会の人や、動物を見に来た人達が黙っていない。彼らにとっては温泉よりも動物のほうが大事なのだ。乗客と旅行会社の交渉が始まった。 野鳥の会陣営のいいぶんは「昨日、デセプション島へは行った。でも悪天候のために上陸できなかったのだ。しかしリビングストーン島は行っていない。カットするならデセプション島のほうではないか」なるほど。説得力がある。 野鳥の会陣営の交渉が実ってリビングストーン島へ寄ることになった。リビングストーン島へ行ってからデセプション島へ行くことになったのだ。このコースだとデセプション島へ着くのは夜になる。でも今は南極の夏だ。夜でもじゅうぶん明るいだろう。曇ってなければ。 午後4時すぎにリビングストーン島に着いた。大量のペンギンに出会えるのもこの島が最後だ。風はまだ強いが、デセプション島よりはずっと収まってきている。アラ・タラソーバは島の風下側に停泊した。 この島にはチンストラップペンギンとジェンツーペンギンのルッカリーがある。 ジェンツーペンギンのルッカリーでマカロニペンギンを1羽だけ見た。こういうふうに1羽だけよそのルッカリーに来ているのはまだ子育てをしていない若い個体らしい。若者がフラフラして他所の世界に興味を持つのはいずこの世界もも同じなのかもしれない。
長生きの鳥は毎年同じ相手と“つがい”になる、というのは有名な話だ。多くの人は鳥の夫婦の絆というものを信じている。ペンギンも長生きの鳥なので、多くのペンギンは同じ相手とつがう。しかも毎年同じ巣で。 繁殖期になり、いつもの島に戻ってきたペンギンは去年の巣を修復しながら去年の相手の到着を待つ。しかし、南極の季節は厳しい。去年の相手がなかなか来なければ、その相手を待っているような時間的な余裕はないのだ。秋が来る前に卵を産んで雛を巣立たせなければ繁殖は失敗なのだ。そのためには準備ができた個体から「レディ?」「オーケー」という感じで“つがい”になっていくのだ。科学者はこれを「同時性」と呼ぶらしい。 ペンギンの夫婦がどのくらいおしどり夫婦か、という調査がある。アインレイとその共同研究者の調査によれば、標識をつけられたペンギンで4年以上つがいになったものはいなかったそうだ。しかしこれはコロニーによっても違うらしい。翌年に同じ相手とつがったのが80%というコロニーもあれば50%というところもある。 南極の厳冬期という厳しい状況で繁殖するエンペラーペンギンの場合は、同じ相手とつがう率が14%というレポートもある。まさに「レディ?」「オーケー」という感じだ。
ジェンツーペンギンの雛がどっしりと半眼で立っている。動いたかなと思うと10歩くらい歩いてまたひたすらじっとしている。なんで彼は動いてそして止まったんだろう。 雛は見るからに鈍そうだが、親の声を聞くやいなや走り出して親とおっかっけっこをする姿や、親鳥が波打ち際から飛び上がるようにして上陸するけどその先のヨタヨタ歩いている様とか、じっくり観察できて面白かった。ペンギンは本当に可愛い生き物だ。 船に戻って次の目的地、デセプション島へ向かう。あいかわらず風は強い。 夕方(?)の9時頃にデセプション島についた。昼よりも風はもっと上がっている。こりゃだめだな。と思ったら案の定駄目だった。我々はデセプション島には縁がないらしい。 今回の病人騒ぎで本当に中止になったスケジュールはロックロイ湾上陸だ。このロックロイ湾の中止が個人的には残念だ。我が愛しのジェンツーペンギンの巨大ルッカリーを見たかった。
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