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2月7日

典型的な南極の氷山

午前中はデショプション島へ上陸し、午後はキングジョージ島の南西にあるリビングストーン島に上陸の予定だ。

デセプション島は火山の島だ。地熱で海水が熱くなっているところがある。そこを温泉にみたてて入ってみよう、という企画もある。この「温泉」にはいりたい人は水着とバスタオルを持って上陸する。「温泉」とはいえなんの施設もあるわけではない。しかも地熱が直に水を温めている。熱くて入れないところと南極の冷たい海水にわかれていると思う。人間にとって丁度いい湯加減の場所なんてあるのかな。あちち、と思って逃げたら次は氷のような冷たさになってるんじゃないかなと思う。でも念のため水着は用意していおいた。

デセプション島の形はアルファベットのCの字の形をしている。この形はカルデラの入江ともいう。

ネプチューンのふいごと呼ばれるCの字の切れ目のところから湾内に入る。Cの字の内側の湾内は天然の良港のようになっている。デセプション島はその地形で外海から船を守ってくれる南極でも有数の投錨地だ。しかし、今日は風が強い。こりゃちょっと危ないかな。というくらい吹いている。雨まで降っている。クルーはゾディアックを降ろして上陸の準備を始めている。彼らがだいじょうぶと判断したのなら大丈夫なんだろう。クルーとガイドだけを乗せたゾディアックが先発隊として上陸地点へ向かった。

次のゾディアックの準備が整い、乗客を乗せ始めた。アラ・タラソーバ号から海面付近までタラップが伸びていて、タラップの海面に近い部分がちょっとした踊り場になっている。この踊り場とゾディアックの高さを合わせて、乗り移る。

風は強いがデセプション島の内側は閉じた海面なのでうねりはない。うねりとは基本的に遠くの低気圧や嵐によって作られた波のことだ。港や湾では地形によってそのうねりを防いでいる。

うねりがないので、風は強いがゾディアックに乗りこむのはそれほど問題がないようにみえる。乗客を乗せたゾディアックが出発し、別なゾディアックが接舷してきた。さらに風が上がってきた。雨のために視界も悪い。

デセプション島の湾内とはいえ10キロ四方くらいの広さはある。強風が長時間吹き続けることによって、波が成長してきた。ブリッジにも風速計がないので正確な風速は解らないが、だいたい平均風速で16、7メートルくらいだと思う。最大瞬間風速は35メートルを越えているだろう。波頭が風で飛ばされ、崩れた波が白く泡立っている。波というよりはうねりという感じに成長してきた。これはやばいぞ。俺は上陸をパスすることにした。この状態で本船からゾディアックに乗り換えるのは危険だ。パスする旨を一緒に上陸するグループの仲間に知らせた。
「俺はパスするが、南極経験豊富な船長が行けると判断しているし、クルーのスキルも高いので、だいじょうぶだろうとは思う。しかし俺は行かない」
と言った。彼らを迷わせただけかもしれない。 それから10分くらいして、今回の上陸は中止しますという船内アナウンスがあった。中止するのはいいがすでにゾディアックに乗り移った人達はどうするのだ。帰ってこなければならない。これからの人員の回収とゾデァックの回収をしなけらばならない。この風のなかで。

荒れる湾内。
写真だとあまり迫力がないけど、本当に荒れていた。

回収はサバイバルの様相を呈してきた。

俺は休日になるとヨットに乗って過ごすことが多いサンデーセーラーだ。ヨットレースで勝ちたいために、1年の休日のすべてを練習とレース、そして遠征に捧げていた時代もあった。風と波には怖い思いをしたことが何度もある。今のこの気象状況で2隻の船を接舷させて、人員を乗り移らせるのは難しいというのが十分解る。もし万が一落水したら、そこは南極の海だ。氷が浮いている海なのだ。真冬の東京湾のほうが圧倒的に暖かいのだ。

落水しなくても危険が待っている。本船とゾデァックでは大きさの違いから同じ海況でも揺れの振幅がちがう。足を滑らせたり、ゾディアックの操船を過って、あるいは運が悪くてタラップの踊り場の下にでも巻き込まれたら大怪我をする。船と船の間にはさまって人間がペシャンコという事故さえおきる。質量の大きさがエネルギーに直結していることの実例なのだ。

クルーたちの緊張が伝わってくる。彼らは落ち着いて自分のゾデァックをコントロールしている。本船側のクルーも落ち着いている。この様子をあまり海で船で怖い目にあったことのない人が見ていれば、クルー達が困難な状況におかれていることに気がつかないだろう。それだけクルーの錬度が高いともいえる。

本船はゾディアックを接舷させる側を風下にして、ゾディアックをとりまく風と波を軽減させるために船首の向きを変えようとする。しかし船の特性として船首は風上を向こうとする。それに、向きを変えるにはある程度スピードがないといけない。船は、その物理的な特性として、その場転回できないのだ。

本船のクルーとゾデァックのクルーの連携により、ようやく全員本船に収容することができた。最後に上がってきたクルーに俺は思わず拍手を贈った。たったひとりの拍手だった。彼はニヤッと笑って片手を上げた。そして海水だらけになったカッパを着替えるためにキャビンの中に入っていった。

風は吹き上がったままだ。なかなかおさまらない。今回のツアーの最大風速だろう。本船のナビゲーターであるサーシャもこの意見には同意した。最大風速をあのドレーク海峡ではなくて、デセプション島で記録することになったのは複雑な気持ちである。

上陸が中止になったので、ガイドの佐藤さんが南極大陸最高峰のビンソン・マシューへ登ったときの話をスライドを交えてラウンジで行なってくれることになった。あたかも出張報告みたいな淡々とした口調で佐藤さんは語るのだが、スライドの映像と話の中身は「冒険」だ。エキサイティングだ。話に引き込まれていく。

船はデショプション島を離れて次の目的地へと移動しだした。湾内であれだけ荒れていたのだから外の海は相当の状況になっている。揺れる揺れる。もう本当に揺れる。佐藤さんの話を聞いている間も一人抜け2人抜けという感じで人が減っていく。船酔いだ。あとで聞いたら佐藤さんもだんだん船酔いぎみになってきて、後半ははしょってしまったそうだ。

船は相変わらず揺れている。俺は佐藤さんの話が終わるとすぐに、自室に戻り、トラベルミンを飲んで横になることにした。


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