2月5日 朝の5時に目が覚めてしまった。外は明るい。揺れがなくなっている。船室の窓から外を眺めてみた。
窓の外に氷山がたくさん見えた。遠く近く、大きいのやら小さいのやら、さまざまな形といろんな水色の氷山が見える。ひとくちに水色の氷山をブルーアイスと言ってしまうが、いろんな色の水色があるもんだと関心する。いやはやもう全くもってまいってしまう景色だ。氷山の合間に鯨が泳いでいるのが見える。群れなすペンギンが水面から飛び上がりながら、その砲弾みたいな体を空中に踊らせている。イルカみたいだ。目に入る景色すべてに興奮してくる。しかしその一方で、あまりの出来事を目の当たりにして現実感が伴ってこない。
上陸の方法はアラ・タラソーバからゾディアック(ゴムボート(インフレータブルボート)のトップメーカー。ゴムボートの代名詞にもなっている)に乗り換えて、浜辺のようなところから上陸する。 午前10時ころポーレット島に上陸した。ポーレット島はアデリーペンギンのルッカリー(集団営巣地)になっている。この島はかつてノルウェーの捕鯨船の乗組員が越冬した島でもある。1903年の冬にノルウェーの探検家で捕鯨業者のC・A・ラルセン率いる船がこの付近で難破したのだ。それで彼らはポーレット島に上陸し、アデリーペンギンを食料として冬を乗り越えた。今でもポーレット島には石を積み上げた粗末な小屋の残骸が残っている。およそ100年近い年月が過ぎた今でも、一目でそれと解るほどの状態で残っている。南極では時間がゆっくり流れているのかもしれない。 ここはルッカリーなので山のようにペンギンがいる。どのくらい山のようにいるかというと、渋谷駅前のスクランブル交差点を渡る人間が全てペンギンになったのを想像して欲しい。その数倍ものペンギンがいる。そしてそれに囲まれるのだ。 ここのアデリーペンギンはオキアミを食べてそして糞をする。だから糞の色は赤っぽい。甲殻類が半分消化されたみたいでとても臭い。ものすごい臭いだ。だが気温が低いせいでそれほどでもないような気がする。でも臭い。衣類に染み込む臭いだ。鼻は確実にマヒする。
この時期、ルッカリーの中の雛は大きくなっているが、まだ産毛に包まれている。濃いグレーでモコモコしている。
ポーレット島から戻ると次の目的地は南極半島最北端のホープ湾である。緯度でいうと南緯63度30分くらいだ。南極大陸とはいえ、ここはまだ南極圏ではない。南極圏とは南緯66度33分以南の地域で、一年のうち少なくとも1日以上太陽が沈まなく、また1日以上は太陽が昇らない日がある地域のことだ。北半球でいうとアラスカの北部くらいの緯度より北だ。66度33分というのは地球の自転軸と公転軌道面との傾きと同じである。 ひとくちに南極といってもどの地域を指すのかは定義によって変わってくる。南極圏以南を南極とするなら南極大陸の一部は南極でなくなるし、この定義だと個性豊かな南極の海も小さいものとなる。 緯度ではなくて海の性質に着目して南極を定義すると、南極収束線という聞きなれない線の南を南極とすることができる。多くの人はこの定義に賛成しているようだ。 南極収束線とは南緯50度から60度付近の海に引かれた線である。この線は蛇行しながら南極大陸をぐるっと1周している。この線のところで北の暖かい亜熱帯表層水と低温の南極表層水が接する。南下してくると海水の表面水温が急に低下する場所である。水温が変わるので、収束線の北と南では生物層が大きく変わる。この線は山脈に匹敵するほどの生物障壁なのだ。 俺が初めて氷山を見たのもこの線の南だ。 南極の表層水だったものは、収束線の北で暖かい海の下に潜って暖かい海の底層水となって深海を流れる。世界中の深海には南極と同じ水が流れているのだ。 収束線は海水温の急な変化のために測定しやすく、季節や年によって位置がほとんど変わらない。南極大陸を連続した線で取り巻いている。という特徴があるので南極の定義にはもってこいと言える。 収束があれば発散がある。南極発散線というのもある。これは収束線の北にある。このメカニズムは収束線より面倒なのでここでは述べない。 南極の定義を巡って話は逸れたが、それでもこのホープ湾はまぎれもなく南極大陸に面している。ここから俺は南極大陸に上陸する。子供の頃に憧れていた夢の大陸に上陸するのだ。記念すべき南極大陸初上陸だ。
今の時期は南極の夏なので、それほど寒くはない。真冬の日本のスキー場のほうがよっぽど寒い。寒さを覚悟していたので多少肩透かしをくらったような気がする。とはいえ南氷洋や棚氷(たなごおり)、雪原を渡る風はつめたい。風が吹き出すとさすがに寒さを感じる。ゾディアックに乗ってるとき、素肌に飛沫(しぶき)があたるとそれはそれは冷たい。刃物で切られるようだ。 ゾディアックに乗り換えてホープ湾内の浜へと向かう。風も弱いし、近くの島と氷山のおかげで海面はすこぶる穏やかだ。 上陸地点の浜辺はソフトボール大からフットボール大の石がゴロゴロしている。石は角ばっている。雪や氷はほとんどない。
この土地もアデリーペンギンのルッカリーになっている。お馴染となったあの臭いが充満している。午前中のポーレット島の数倍以上のアデリーペンギンが子育てをしている。上陸したあとは空でも見上げない限り、視界に必ずペンギンが目に入る。海から遠くはなれた山の斜面にもたくさんのペンギンが巣を作っている。海からあんな遠くまで、しかも斜面を登るのは相当難儀なことだろうと思う。海の近くに巣をつくれば職住接近なのにと思う。
この数万、もしかすると十万羽を越えるかもしれないペンギン達はどうやって自分の巣に戻るのか。ペンギンは目が悪いので目で判別することはできないといわれている。鳴き声で個体を識別しているのだ。音だけをたよりに我が子へと餌を運ぶ。そのために彼らはしょちゅう鳴いている。鳴き方はちょっと鳴いては聞き耳をたてる、という感じの鳴き方だ。ガーガーというかギャアギャアという感じで鳴いている。その声は美しい鳴き声とは言い難い。 ペンギンの歩く速度は意外と速い。老婆の散歩くらいの速度はある。小さな翼をひろげてバランスをとりながら石だらけの土地を延々と歩く。歩きやすそうなところを選んで歩いているので自然と列ができる。意識的に列を作って歩いているようにすら見える。その列の長さは1キロ以上にもなる。列の途中に紛れ込んで後ろを振り返ると白いペンギンの群れがこちらを目指してよたよたと、前を見ると黒いペンギンの群れが前を目指してよたよた歩いているように見える。
孫引きの翻訳物からの知識だが、デイビット・アインレイらの「アデリーペンギンの繁殖活動」という本によると1日で74キロ歩いたペンギンもいるらしい。しかしこれはちょっと眉唾だ。時速3キロで24時間休みなく歩いても72キロである。そんなにペンギンが歩けるとは思えないが、野性のペンギンがものすごい距離を歩くということは理解できる。ついでにペンギンの能力で驚くべきことはその潜水能力である。アデリーやジェンツー、チンストラップなどのブラッシュテイルと呼ばれる中型のペンギンで50メートルから100メートル潜ることができる。大型のエンペラーペンギンは265メートルという記録がある。測定器をつけられたペンギンの中での記録だから、それ以上潜ることができるペンギンもいるかもしれない。
ペンギンの姿形や動作、ふるまいは可愛らしい。イメージのままだ。いや、イメージよりも可愛い。野性のペンギンは動物園のペンギンたちよりも可愛い。でもその実際は臭くてうるさい生き物だ。種類によっては相当攻撃的なものいるが、攻撃されるような位置に近づく方も悪い。とはいえルッカリーの中に入ればペンギンとの距離を一定以上に(上陸前のブリーフィングでは2メートル以上と指示された)保つのは難しい。寄ってきたペンギンから離れようと動けば別なペンギンに近づいてしまうのだ。場所によってはペンギン同士の距離が1メートル以下なのだ。そういうところには近づいてはいけない。
ペンギンに遠慮しながらホープ湾付近を散策する。上陸地点のすぐそばに山というか丘があったので、ガイドに連れられて登ってみた。標高は100メートルくらいか。この山はペンギンの巣作りには見放されたらしく誰も巣を作っていない。巣を作るには斜面が急峻過ぎるのだろうか。
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